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∞∞ダム日記157(誰の金?)∞∞

3月26日(火)

「ダム建設を推進したい人間や人間の群は、関係自治体とグルになってかかって
くる」という表現を使いたくなる時がある。あちこちのダム建設事業を観察して
いると、その気味の悪さに背筋が寒くなる。それが、お金と結びついてくる時に
は、腸も煮える。

誰だってお金は欲しい。しかし、お金が欲しいという人間の心を玩んではいけな
いという道徳心と義狭心は持っていてほしい。こと、社会をリードする人間には。


【協力感謝金】
昭和64年、苫田ダム建設を推進したいばかりに、現岡山県知事は、卑劣な手段に
打って出た。県内部資料には、「阻止地権者崩しの正念場」と書かれていた(TV
ドキュメンタリー'89「33年目の選択」参考)。かくも露骨だ。表現が露骨なら、
実際の切り崩し策も露骨だった。
その年、苫田ダムができた暁に恩恵にあずかるとされる「下流の自治体」(つま
り下流住民の税金)から金を集めて、水没予定者を対象に差し出すことにした。
「協力感謝金」。水没予定者のうち、1年以内に立ち退きを承諾した者に対し10
0万円、2年以内の承諾なら50万円。2年を過ぎると一銭も出さない、という「
揺さぶり」だ。
故郷を追われる補償ならば、平等であるべきだ。
「水」がどこかで何トンか必要なら、そういう説明をすべきだ。
ところが「金」で気持ちを追い立てる。
こんな前時代的なことが、ほんの8年前に行なわれていた。だが、今も大して変
わっていない。

先月21日、那賀川下流の阿南市長らが、木頭村に対し、ダム事業の受け入れと
引き換えにという条件で、ひとつには「木頭村支援基金の創設」なるものを申し
入れた。腸が煮え繰りかえるのは、こういう時だ。
人の気持ちを「金」で追い立てようとする。
金で故郷を売れ。「金をやるからダムを作らせろ」。
そんなことを言われたら、言われただけで、気持ちは萎える。その言葉に少しで
も心が揺れる自分に嫌悪する。そんな理不尽な言葉を操る相手の貧しい心を思っ
て、また気が沈む。

たかがダムのために、金で人の頬をはたいてはいけない。善悪を教える人と、彼
らは今まで出会わなかったのか?善悪の区別がつかないまま、社会からの矯正を
受けることなくそのまま育ってしまったのか?
「ビジョンのある政治家」なんて高望みは押しつけないけど「せめて、善悪の区
別がつく大人に育って欲しかった」と思う。

それに対して、木頭村が行動によってすぐ後に示した答えは、「ビジョンのある」
第三セクターの設立だった。なんども、なんども、私は木頭村を誇りに思う。

先日、海の向こうから来た仕事仲間に、木頭村の話をした。
帰国際に彼が残した言葉は、「Keep your village in safe!(君の村を守り続け
ろ!)」
私の答えは「They do it themselves. (彼らは自らを助けるよ)」だ。

報告が遅れてしまったけれど、3月16日は、「細川内ダム建設に反対する徳島
市民の会」の講演会があった。
木頭村ダム反対同志会の元会長で、今は木頭村会議員の田村氏は「ダム計画のた
めに、村民同志の信頼関係も」影響を受けたことを話した。
「ストップ・ザ・苫田ダム」の代表は、上記のような岡山県の「札束攻撃」のこ
とや、ダム建設前提の公共事業しか認めない「行政圧迫」のことなどを挙げて、
「町ぐるみで反対」と安心しているうちに、住民が虫食いのように賛成に回り、
組織が崩れたことを教訓として与えた。

ダム推進のための人非人的切り崩し策は、選挙によって、そういう善悪の区別を
知らずに育った政治家が皆、ひとり残らず落選するまで、ダム必要論・不必要論
とは関係のない所で、仕掛けられていくだろうけれど、時代は変わっている。
「ダムは本当に必要なのか」という議論になってくる。
情報公開の波が押し寄せてくる時に。
あともう少し!木頭村頑張れ!

それにしても、阿南市など下流自治体による木頭村訪問は、各地方建設局には、
これまでのダム建設の歴史の中で、コツコツと作成された「ダム建設反対の地主
切り崩し」マニュアルでもあって、それを関係自治体にでも回すのだろうか、指
導でもあるのだろうか、と思わせる出来事だった。

春休みやGWに、山や川に出かけることがありますね?
あなたは今まで気づかなかったかもしれない(私もほんのちょっと前まで知らな
かった)けれど、どこかで誰かしらが、その山や川を守るため、日々、闘ってい
たりします。

まさのあつこ