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9月28日(土)
20日から26日まで、仕事とダム日記を休んで、象の国タイへ行ったので、週日も
週末も昼も夜も仕事、という生活に入ってしまった。立法学ゼミも一回サボって
しまった。夏の終わりまでに、乏しかった貯金さえも使い果たしたので、天の助
けなのだが。。。

9月に木頭村で起きていたことを、ざっと説明する。
ダムはいらないという意志表示である「ダム抜き振興策」の柱「木頭ヘルシック」
の従業員問題を巡って、村はガタガタしていた。
その原因は、村内の縫製工場で働いていた若手従業員の3人が木頭ヘルシックに
応募して2人が採用されたことで、縫製工場が閉鎖に追い込まれるという騒ぎが
地元紙に載るという異常な事態から始まった。

久米議員(元議長)は、「木頭ヘルシック」による「引き抜き」であるとし、木
頭ヘルシック設立によりこのような問題が他にも起きていないかを調査する特別
委員会を設置しようと議会に提案していた。
実際に「引き抜き」の事実はなく、若い人が将来の有望なヘルシックへ転職した
がるのは自由だし誰も止めることはできない、11人中2人が辞めたから閉鎖とい
う話はおかしいという村の人もいた。

藤田助役は、調整に走り回り、「あの日」も朝4時過ぎには、現議長大沢氏と共
に縫製工場の経営者が住む村外の町へ出かけていった。
その正午近くに針金で首を吊って自宅の納屋で亡くなっている。

「木頭ヘルシックを政治生命をかけて潰す」とマスコミに対し発言したと言われ
る久米議員の目に余る言動に、我慢がならない、とビラを作成したという平野豊
氏に、私が電話をかけたのはその夜だ。
電話をかけたのは、私の知るかぎり、平野氏が温厚で、理性的な人で、ビラを作
成したりばらまいたりする人には見えず、驚いたからだ。急展開に茫然としなが
らも、木頭村がひとつの山場を向かえていることは感じた。

その数時間後の深夜2時、村の関係者ではない人から電話で起こされ、「木頭村
の助役がお亡くなりになりました」と聞かされた。

そのまた数時間後、ビラは村内に巻かれた。12日の朝だ。

次の週、19日、臨時議会は予定通りに開かれ、久米氏の提案した調査特別委員会
設置は議会で否決された。縫製工場の社長も「閉鎖」は取りやめて自主的な対処
をすると了承をしたと説明があったという。

助役の遺書にはこうあった。
「ご迷惑をおかけしてすいませんでした。死んでおわびします」
私の中で、誰のせいにもせず、お願いですから私の命に免じて、という声になる。


そこまで追い詰めた原因の、私はひとつだろうか。
助役を知る人すべてが、きっと、そう自問したに違いない。私はした。

たかがダムではありませんか。逃げれば良かったのに。どんなことになっても助
役の命の方が大事だった...。その「ダム」ではなく、一歩手前の「ダム抜き
振興策」で命を張ってしまった、それが助役さんの人柄と思い入れを物語ってし
まったのか。繰り返していた「命がけで守りますよ」の言葉返りになってしまっ
たのか。

助役の死に際して新聞記者達が署名記事として載せた言葉の中で、私の気持ちと
重なった言葉を、勝手ながら引用させてもらう。

毎日新聞徳島版より
・・・・阪神淡路大震災の復旧作業のなか、自ら命を絶った神戸市助役と同じく、
あらゆる仕事が集中してしまうナンバー2ゆえのつらさや重圧があったのだろう。
すべては想像の域を出ない。ダム反対運動の犠牲になったとは思いたくない。こ
うした形で、彼が脚光を浴びることはあまりに寂しく悲しい。(横田信行記者)

朝日新聞徳島版より
・・・・地元の人たちの意思にほとんど耳を貸さずに進められるダム行政。この
不当な公共事業のあり方を変えることが出来なくては、「藤田さんの霊よ安らか
に」と言う資格はない、と自分に言い聞かせている。(岡村健記者)

まさのあつこ