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ダム日記252(阿南市の人へ)←  1997年 2月 3日  →ダム日記254(公共性とダム)

∞∞ダム日記253(昨日の日記)∞∞

*昨日書いたけど、アップしようかどうか迷った。友達のことだから。でも、一
日考えて、やっぱりアップすることにした。私は露出狂なのだろうか。でも、きっ
と、これを読んで元気になってくれる人もいると思うのだ。
*そんなわけで、「ダム建設をボランティアにやらせろ」の巻は、次にアップし
ます。

2月3日(月)でも昨日の日記

私の人生は、どうしてこうドラマチックなのだろう。
そう思う時がたびたびある。

1月31日、木頭村のおまけでちょこっと私が出たニュース番組を見て、私と連絡
を取りたいという人がテレビ局に電話をかけてきた。それは、私の筆不精から連
絡の途絶えてしまった友達だった。私にはそういう友達がチラホラいるf(^^;)が、
最終的には実家の電話番号を押さえているから大丈夫だという安心感がある。
友達って、終わるもんじゃない。特に彼女とは。

その電話番号に電話すると、彼女の旦那さんのお母さんという人が出た。
「政野さんから電話よ」とお母さんが言っているのに、彼女はなかなか電話に出
てこない。おかしいな、と思った。すぐに飛んで出てくると思ったのに。
彼女「もしもし?」
私「早代さん?あっちゃんだよ〜」
(あっ、あっちゃん?何してんのよ、駄目じゃないよ、音信不通になってぇ。)
とか、彼女の弾むような声を私は期待していた。
でも返ってきたのは、「うん。元気?」だった。
まるで、昨日も電話をしたくらいの感覚。そう言えば、時間が存在するような間
柄ではなかったか。そんなもんか、相変らず冷静なやっちゃな、と私は思った。

それで、「早代さんは?元気?」と聞いた。
聞きながら、(それにしてもやっぱり元気なさそうだもんなぁ。テレビ見て私を
見つけたんだから、その凄い偶然に、チョットは興奮しろよ〜)と思った。
「うん。まぁまぁ。元気と言えば元気。元気じゃないと言えば元気じゃない」
やっぱり何かあるのか。
「どこが元気じゃないの?」
「うん。今ね、左半身が麻痺してるんだ」
あまりにも淡々と言うので、私も淡々と聞けた。「なんで?」「脳内出血」「な
んで?」「だからさぁ、それもあって手紙書こうと思ったから」「じゃ、住所言
うよ」「それがさぁ、今書けないから」「あ、そか、じゃ、私が書くよ。早代さ
んのを教えてよ」「うん。住所だけ書いてよ。そしたら手紙書くから」「うん。
書くよ。葉書だよ」「いいよ」
昔と変わりない口調で話が進むのと同時進行で(それで電話にすぐ出てこれなかっ
たのか、メモが近くにないのか、取りにいけないのか、遠慮しぃの彼女だからお
母さんに「取ってください」と気兼ねして言えないのかな、それとも右手でも書
きにくいのかな)と、彼女が、私の知らない所で過ごした「時間」を思いめぐら
した。

「で、なんであっちゃんがテレビに出てんのよ」彼女の声がニコニコしてきた。
やっと嬉しさが伝わりあいっこした。私「カクカクシカジカ。子供はまだなんだ
よ(^_^;)」彼女「できるよ、そのうち。うちも退院してからできたんだ(^。^)」
まさの「おっ、それは凄い。良かったじゃん。無事出産できて。ね。遊びに行く
よ。ガキの顔見に」「うん。来てよ。嬉しいな」

私は、精神的命を彼女に救ってもらったことがある。
10年以上前だ。睡眠を1日4時間くらいにして、英語を独学していたころ。
昼間はフルに働き、休日は家族のために時間のほとんどをつぎこんだ。勉強時間
捻出のために睡眠を削った。鉛筆を握ったまま、英字新聞の上につっぷして電気
をつけたまま寝呆けて朝になることがよくあった。「今どき、苦学生なんていな
いよな。でも私がそうなんだ」と、目が覚めると苦笑した。しかもそれが、大学
に入るための苦学だったのが滑稽ですらあった。充実感はあった。自分が選んだ
やり方だった。

一体なんのためにあんなことをしていたのだろう。今、思うと不思議だが、その
頃は、「大学に入って臨床心理学を学ぶために、勉強しながらお金を貯める」そ
れしか考えていなかった。お金はできたとして頭がついていかなければ困るから、
英語だけは勉強を続けていた。しかし、大学に行けるほどお金が貯まるのか、入
試の他の科目はどうするのか、考えないでもなかったが、とりあえず、お金がな
ければどうしようもない話であることは明らかだったので、とにかく働いたし、
頭がついていかなければ仕方がないので、挽回が大変だろうと思える英語だけで
も維持することにしたのだ。維持するということは力をつけるということだった
と、後になって気づいた。それから数年後には英語で御飯が食べて行けるように
なったのだった。英語で食べていこうなどとは思ってもみなかったのに。

ちょうど、ジャーナリストになろうとも思わなかったのに、ダム日記を書いてい
るうちに、その気になってしまったのと、どこか似ているかもしれない。

臨床心理学を学んでカウンセラーになるという夢は、完全に吹き飛んだ。
でも、励ますジャーナリスト(advocacy journalist)になりたい。誰にも彼に
も、持って生まれた生命力に気づいてもらいたい、という所に辿り着いたのは、
巡り巡って元に戻ったのだ、とも言えるかもしれない。思い続けていたことは、
適うのだ。きっと。

人間、単純であった方が幸せだと思う。できることからやっていく。それ以外に
は、何事も始まらないし、始めれば、始まっていく。それは私が得た勲章だった。


話を元に戻す。
今でこそ、その勲章「始めれば始まっていく」が与えられたあとなので、喜々と
して生活しているが、その頃は、まだその勲章がもらえることが証明されていな
いわけだから、それこそ将来一体どうなってしまうのか、保証のない生活の毎日
で、肉体の疲れに、精神が負け始めていた。
でも、私は負けず嫌いで意地っぱりで、友達や家族に弱音を吐かなかった。

でも、彼女は気づいた。あるいは、弱音を吐いていないと思いながらも、それな
りのサインを私は彼女に送っていたのかもしれない。あるいは、彼女は単に私の
生活の異常さを、彼女の物差しで判断したのかもしれない。いずれにしても、彼
女は、その頃、アルバイトしながら小笠原の父島に住んでおり、「だいぶ疲れて
るね。小笠原においで」と、手紙を書いてよこした。
筆マメの彼女には珍しく、短い手紙だったのを今でも印象的に覚えている。そん
なことを覚えているのも不思議な感じだ。でも、彼女の手紙はいつも長くて丁寧
だったから、その時だけ意外なほど短かった。しかし、いつもと同様、私と対等
だった。
対等。変な言い回しだが、彼女に出会った頃、私は万年反抗期状態だった。寂し
かったし、混乱した状態だったのに、意地を張っていつも一人で自己と対峙しよ
うとしていた。他の人は放っておいてくれたのに、彼女だけは放っておいてくれ
なかった。「ね、邪魔?」と言いながら寄ってきて、私に漫画をたくさん読ませ
た。おせっかいな奴だったのだ。対等ではなかった。ひとりぼっちになりたがっ
ている私を彼女は包み込むようにして、そこにいてくれた。対等ではないのに、
対等だった。

彼女からすれば、ひとりぼっちでさみしそうな人に話かけてあげるはずのものが、
私の立場から彼女は見ていたので、「おせっかい」と知っていた。でも、彼女の
立場で、私を放っておかなかった。だから、「邪魔?」と言いながら捩じり寄っ
てきた。「なぜ私を放っておいてくれないの?」私はよくそう思ったものだ。
そうだ。思いだした。あの時も、私のことをあれこれと手紙で気にする彼女に、
そう手紙に書いたのだ。「なぜ私を放っておいてくれないの?なんでそんなに優
しくしてくれるの?」ってなことを。

そうしたら、小笠原においで、という返事が来たのだ。
それは自分の楽しい南の島の生活を自慢したいからでもなければ、私のことをか
わいそうに思ってでもなかった。小笠原においで、と言っている彼女の言葉はそ
れがすべてだった。「小笠原にくればすぐに元気になるよ」そう淡々と書かれて
いた。私は彼女に負けた。

無理を言って、彼女のいいつけ通り、仕事を2週間休んで28時間の船旅をして小
笠原に到着した。果たして元気になり、そこで一つの決定をした。汗をたっぷり
かき、真黒に日焼けして、生命力が蘇り、私にとって健全で前向きな判断がそこ
でついたのだ。その決定は、私の人生を大きく変えている。

彼女が「おいで」と手紙をよこさなければ、私は、あの町で、つぶれていたかも
しれない。ひねた人生を送っていたかもしれない。あるいは、今よりももっと色
々な遠回りをしていたに違いない。

彼女はいつでも手を差し伸べてくれた。それも対等な立場で。
私は、まず、彼女に会ったら、半身麻痺してしまった彼女のことを、かわいそう
だと思ってしまったことを白状しよう。
それから、高校から社会に出て、様々な冒険をした私をいつも淡々と受けとめて
くれたことを、今日こんなふうに思いだしたことを話そう。
それから、もしも、彼女が照れなかったら、彼女を抱きしめて、彼女の子供を抱
きしめよう。
なんちゃって、数年ぶりの再会は、やっぱりどんな人だって、ドラマチックになっ
てしまうのではないだろうか。

まさのあつこ
Advocacy Journalist

いずれにしても、木頭村と日本テレビさんにお礼を言います。
ありがとうございました(^^) 。
ほんとうに「有り難い」ことでした。