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ダム日記317(佐藤議員の話)←  1997年 7月 13日  →ダム日記319(紙と電子)

∞∞ダム日記318(田村好さん)∞∞

7月12日(土)
木頭村には、村長の他にも、「この人がいなければダムができていた」という人
がいます。中でも、田村好さんはキョーレツです。徳島県がダム生活相談所を村
の許可なく、設置しそうになった時のテレビ映像を、私は忘れません。ムシロ旗
を渾身の力を込めて握り締め、「ダム反対」のハチマキを締め上げ、「村民の許
可なくこの場に一歩たりとも入ることは許さん!」と役人に向かって人差し指を
立てて、啖呵をビリビリに切ったのだ。それまで、腰の低いニコニコ田村さんし
か知らなかった私は、「ひょえ〜、田村さん、コワ−」と思ったものだ。5日の
勉強会では、「ニコニコ田村さん」と「ビリビリ田村さん」の両方の姿を垣間見
ることができました。
その田村さんのお話を、皆さんも是非、聞いてください。

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ダムに反対し続けてきた木頭村民・田村好さんのお話
1997.7.5 木頭村の未来を考える会勉強会にて
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皆さん今日は。「木頭村の未来を考える会」が主体となって、審議委員会とは何
でしょうかというテーマで検証する勉強会を開いていただける、こんなお話を政
野さんからお聞きしましたので、喜んでかけつけて来ました。
私も26年間、ダム建設に反対して頑張ってきましたが、今日ほど、全国の同志の
皆さん方から、いろんな形で温かいご支援と、ご協力を頂き、誠に感謝にたえま
せん。今朝、村長の藤田さんにお会いしてきましたが、皆さんにくれぐれも宜し
くお伝え下さいとのことでした。
少し、自己紹介をさせて頂きますと、小さい時から私は、父と一緒によく山へ行
き、山小屋で寝泊まりし、原生林を切り倒し、そこを焼き畑けにして、稗(ひえ)
や粟などの穀物を作り、それを主食にして、父は九人家族の生活生計を立ててお
りました。ですから、その頃、お店から買う物は、「イリコ」と「塩」ぐらいで
あとは全部、おふくろが、味噌、醤油、漬物など造っていました。そのほか、自
然林での椎茸栽培、三ツ又の生産、炭焼き等もやりましたし、山育ちですから、
どんな大きな木も平気で切り倒し、二十才位になりますと、山仕事を一人で請け
合い、木材の伐採や搬出、植林等々、割合自由な立場でものが言え、行動するこ
とができました。そのようなことが、あとあとのダム反対闘争に生かされてきた
と、このように思います。

昭和46年7月当時の村長から細川内建設計画が発表され、村はダム建設を受け入
れた「木頭村基本構想」を打ち出し村議会もこれに同調し、村内は騒然としまし
た。
早速ダム対策同志会が結成され、47年1月の総会には、私が会長に選出され、以
来3年間、ダム建設反対の闘志として、先陣をきるハメになりました。
最初の1年間位は、村長と一緒に、各地のダム建設の予定地や現場を視察し、四
国地方建設局へも反対陳情をしています。村は反対運動をする事で、あとあとの
補償交渉を有利にしようとの思惑があったようです。
2年目からは、村当局の話はうますぎると判断、同志会独自で今後は調査を始め
ようと決意、以来、ダム建設の日陰で泣く多くの人々の声を聞いた時、「ダム建
設こそ村を滅亡さす」との結論に達しました。勿論、我が那賀川下流の三基のダ
ムも考慮してでありますが。
3年目からは、ダム建設阻止にむかって、全力を投球し、1,120名の署名簿を村
へ提出、その一方で「ビラ」や「チラシ」を村内はもとより、那賀川下流域へも
配付、またデモ行進や、村民決起大会、リコール運動等を行ない、ダム建設を承
認した村議会を自主解散させ、50年1月の村議選では、5名の反対議員を誕生さ
せ、ダム反対決議をするまでになりました。(当時12名、現在10名の村議)

50年7月より発足した村長の諮問機関である審議会も1年半後には、ダム不要論
を答申しました。51年9月木頭村を襲った台風17号は、各地でガケ崩れや、山の
崩壊、各地の林道はほとんど流失し、平集落は、鉄砲水と濁流で押し流され、四
人の尊い人命を失いました。1日の降雨量は、1120ミリ、この記録は未だ破られ
ておりません。激甚災害救助法が適用され、災害復旧に十数年かかり、事業費も
百十数億円といわれています。当然、山林労務者も農家も公共事業へ、土木工事
へと仕事を変え、公共事業への依存も高まり、二十数年後の今日、県の締め付け
の絶好の餌食になろうとは、思ってもみませんでした。

歴代の村長や理事者は、村民にはダム反対を唱えても、県や建設省へは、ダムの
事は言わない、反対しない、その代わり、「公共事業をよこせ」と暗にダム建設
を認めるようなポーズを取り続けて来たのは、まぎれもない事実であります。で
すから村へ圧力をかけなかったと、こう言えます。

藤田さんが村長に就任以来、村民の要望に答えて、公然とダム建設の白紙撤回を
要求し、その闘いぶりと村民の支援に、県や建設省も大いに驚き、慌てふためい
た事でしょう。それは、後日起きてくる県や建設省の強引さを見れば、一目瞭然
であります。
反対運動を早く抑えなければ、と焦るのも当然かもしれませんが、県や建設省や、
村当局を無視して、一方的に「ダム容認派」と懇談会や説明会を開き、その一方
で各戸にパンフレットを送り付け、調査用の機材を運ぶために、地権者に無断で
モノレールを設置したり、生活相談所を開設するかと思えば、調査事務所を工事
事務所に格上げをする、県担の補助事業のカットや土建業者の指名をはずすなど、
数え上げればキリがありません。
こうしたやり方を見ていると、かつて岡山県知事の苫田ダム建設に反対する奥津
町に対して、物凄い圧力を加え、嫌がらせを加えた事態を思い出し、いよいよ本
格的な闘争になってきたなあと身のひきしまる思いでした。
私は、昭和から平成に年度が変わって以来、ダム建設計画の推進が急に早まって
いるような雰囲気を強く感じておりました。災害復旧が進むにつれて、長老議員
の一人は「ダムは止らないぞ、そのかわり公共事業をよこせ」と県の方へ要請し
ていると、こんな話を聞いた時、このままでは駄目になる、こう思った私は、一
軒一軒の昔の同志を訪ねて、ダム建設の反対運動の強化と、団結を呼びかけ、一
対一の対話を重ねた人は50人を越えました。
1年半後の平成6年3月28日、350世帯、約800人でダム反対同志会の統
一総会を開き、六団体を一本化することができました。以来、署名収集やチラシ
の配付、宣伝カーによる街頭演説、県や建設省への抗議行動等、藤田村政を支援
する体勢を一段と整えることができました。そうして平成7年1月村内の有志の
推薦を受けて、それまでかたくなに断っていた村議選にあえて立候補を決意し、
当選させていただきました。口ではダム建設に反対を叫びながら、議会を支配し、
住民運動を抑えようとする長老議員、役場の職員の異動にまで口出しし、ダム抜
きの木頭村総合振興計画に反対する不可解な行動に業を煮やした住民達が、「木
頭村をよくする会」を結成し、その人達が中心となって、今年の2月、リコール
運動を展開、この3月彼は失職しました。

後日の候補選挙では、新人女性が当選、藤田村政を支える砦がますます強化され
ました。遅遅として進まない行政改革、官僚天国日本の生み出した公共事業とダ
ム建設、そのダム建設計画を何としても白紙撤回させるために、今後も全力をあ
げて、取り組んでゆく事を決意して、活動報告にかえたいと思います。有難うご
ざいました。
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駆け付けてくださるという田村さんに、思い切ってお話をお願いして本当に良かっ
たと思いました。私自身は、これまで木頭へでかけて行っても、正面きって昔の
ことを聞くなんて怖くて(田村さんがじゃなくて(^_^;))出来ませんでした。村
民でもないのに、外から勝手に応援させてもらっている私や仲間に「政野さん達
がこうして応援してくれることが、ものすご嬉しいんですー」と勉強会の後で何
気なく労ってくださった田村さんの気遣いが、心から嬉しかったのでした。

まさのあつこ