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7月24日(木)・・・転載の続きです。

>00121/00123 VFD01505  山本まり         本当に大事なことは何か(2)( 長文です)

  「本当に大事なことは何か」(2)

  「人権」という言葉は、私にとっていまだによく消化しきれ
ていない言葉の一つです。
   アエラの記事の中で、藤田村長もダム問題は人権問題だ。
とおっしゃっていますが、「人権」という言葉は、日本という
社会のなかでは、まだまだ、こなれていないわかりにくい言葉
なのだと思います。このため、人権問題としての、「ダム問題」
は人の注目を集めにくく、「関係のない人々」の共感や関心を
得ることができにくかったのだと思います。

  苫田ダム建設反対運動のスローガンは「ふるさとを銭では売ら
ぬ」でした。  「ふるさと」とは何か? ただ、土地のことを指
しているのでしょうか?  共同体の事を指しているのか?
聞く人によっては、泥臭く、あいまいな言葉だとおもうかもしれ
ません。  「ふるさと」この言葉にはあまりにも、多くの概念が
含まれているような気がします。
  土地であり、先祖に対する思いであり、共同体そのものであり、
自分の思い出。その土に育てられ、その共同体によって守られた。
自分へとつらなる命の鎖である祖先の眠る場所。  すでに、半ば
都市生活者化した私には、うまく言語化できませんが。

  ふるさとを金にかえるということは、自分の魂を金で売ると
いうことに等しい。
  そのように考え、抵抗した人々が、長い年月と何百億という
お金を行使する圧倒的な暴力の前に屈していく。それが、私の
見てきた物語でした。

  暴力を振るう側は「ふるさと」を単に、土地に対する「私有
権」という言葉に置き換えるシステムしかもっていない。
 「私有財産は正当な補償のもとにこれを公共のために用ひる
ことができる」
  これが、何十年にもわたって、弱いものいじめをしつづけ、
莫大な税金を費やし続けた事象の唯一の根拠だということに、
私はめまいすらおぼえます。  そして、もっと驚かざるを得な
いのは「公共」とは何か?または、それは本当に公共の福祉向上
に真に貢献したのか?という検証を行う装置が存在すらしていな
いということです。いまだに。
  また、「 正当な補償 」とは「たくさんのお金」の事だとい
ったい誰がいつ決めたのか。
  どこかの、誰かが、適当に解釈した「公共」のために、人間
が人間によって買い上げられていく。というのが、日本のダム
問題の本質です。
  買われた人間は、「金で魂を売った人間」という恥じを負わさ
れて、魂を病んで死んでいく。
  お互いを軽蔑しあい、自分を恥じながら、生きていかなければ
ならない。    これを、意識化し、言語化できる人間は幸いです。
でも、そうでない人、意識の奥底に隠蔽しようとする人は、病、
あるいは自殺という形で、無意識の内にに自分の恥じを雪ごうと
するのかもしれません。

  かつて、日本人にとって、「公(おおやけ)」とは「大宅」で
あり、すなわち天皇であったといいます。  日本の土地神の総元締
めである存在に、土地を捧げるというのであれば、一つの「筋」
が通っていたのかもしれない。 天皇という存在が社会的に機能
している時代なら、それは「恥」ではなかったのかもしれない。
  でも、今の私たちにとって、「公共」とはなんなのでしょうか。
まさか、官僚や政治家の私腹を肥やし、名誉欲を満足させるこ
とが「公共」ではないでしょう。

  本来、選挙や議会においてそれらは話合われるべきことであり、
そして、それらは話し合われてきたことになっています。
  しかし、やったことの検証のシステムもなければ、真剣に見直
す制度も存在しないなかで、歴史は進んできました。
  なぜ、それですんできたのか。不思議です。  苫田ダム計画
の推進は、オール与党という環境の中、20数年に渡る自治省あ
がりの知事の独裁政権によって、押しすすめられました。
  行政のプロが自分の得意の分野で、法の目をうまくくぐるよう
に張り巡らせた網の中にダム反対派を追い込み、バラバラと税金
を撒き散らしながら、自分のやりたいことをやりたいように、や
ってのけて見せた。  その行為の中に、私は「公共」を見出す
ことはできません。
  苫田ダム計画の実施が事実上決まった時の、ゲームに勝った子
どものような、知事の顔を私は一生忘れないでしょう。

  「環境保護」というタームは、「人事ではないのだ」という事
を合理的に納得してもらうには有効なのでしょう。でも、それだ
けでは、絶対的にたりないのです。  環境を保護しなければ、や
がて自分も死ぬだろう。という物語だけでは、社会の本質は何も
変わらないような気がしてなりません。
  それは、あまりにも浅薄なエゴイズムの所産だからです。

  公共とはなにか。  私たちはそれをどう考え、何を選んでいく
のか、ごまかすことなく考えなければなならない時がきているの
だと思います。
  それなくして、この問題の解決の糸口はつかめない。

  「環境保護」「税金の無駄使い」「官僚の腐敗」というのは、
私にとってはダム問題について、少しでも多くの人に知っても
らいたいという目的のための一つの方便でしかありません。
  方便に対しては「人と鮎とどっちが大事だ」という方便が返っ
てくることになり、方便と方便の戦いからは、真に社会を変える
力はもたらされないでしょう。

  「くたばれ環境保護」というような言説がひきもきらないのは、
結局「公共」とは何かという議論があいまいなままであることの、
所産にほかならないのだと思います。
  個人の権利は、公共の福祉の前に制限される。 しかし、「公共」
とは何かを、私たちは十分に理解しているといえるでしょうか?
  ただ、様々な「欲」と「欲」が錯綜するという状態を克服するに
はあらためて、この点について問題提起していく必要を感じます。
 「国家権力」という暴力を「世論」という暴力で屈服させると
いうのでは、実はなんの解決にもなっていないのではないでしょう
か?

    なぜ、「ムツゴロウを救え」というスローガンには反応しても、
 「人権無視」という言葉には反応しない人が多いのか、ここのと
  ころをあいまいにしたまま、私は先には進めないんです。
    同胞である、「人間」の苦難には鈍感であっても、「ムツゴロウ」
  の苦難には、簡単、単純に反応する、という人が大きく支えている
  「世論」を、私はやっぱりどこかで、警戒してしまうのです。

    これって、やはりどこかおかしい。「ムツゴロウを救え」という
  のが一つの方便に過ぎないことは、仕掛けてる方は自覚的なはずで
  すが、乗せられているほうは、決して、自覚的とばかりは言えない。
    結局、本当に大事な議論は深まらず、漠然とした、「自然保護=
  いいこと」というイメージだけが醸成されていく。これに、なにか
  納得いかないものを感じる人がいるのは当然の事です。
    私たちが、今本当に考えなくてはいけないことは、なんなのでし
  ょう?
    諫早の干拓で恩恵を被る農家の文章には、「日本の食糧を支える」
  という、言い分が登場する。王子製紙のIDを使った人の言い分の
  中には「県益」という言葉が登場する。
    いずれも「公共」をいかに解釈するかという問題にカテゴライズ
  することができるといえるでしょう。

    そこに立脚して、話を深めていく必要がある。「環境保護」という
  切り口だけで、「公共事業」を論じるのはやはり無理がある。
    公共とは何か?という問題を考える時に「環境保護」というのは、
  もちろん大切な問題として、視野に納めておく必要があるのは言うま
  でもないことですが、「環境保護」というタームだけではやはり、
  足りない。  今のままでは、「お金が足りなくなったので、止めました」
  というだけの話に終わって、「公共」の役に立ったのか検討する仕組み
  はあいかわらず存在しないまま、になりかねませんが、それでいいんで
  しょうか?
              もちろん今の状況は歓迎すべき状態だと思っていますが
                                                        山本まり
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明日から岩手に勉強に行ってきます。帰宅は来週です。音信不通になります。そ
の間、どうか時間をかけて、まりさんの話を読み返していただければと思います。
お願いします。私は、ダム問題において、山本まりの前座です。最近、富にそう
思います。彼女の話を2年間聞いて私なりに消化して書いたものが、「法律時報
8月号(7/25発売)」に載ります。
まさのあつこ