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ダム日記328(ロビー活動)←  1997年 8月 9日  →ダム日記330(ラオスと木頭?)

∞∞ダム日記329(これも青春だ)∞∞

8月9日(土)・・・そろそろまたダム日記の裏側の話を少しまとめておこう。
裏側話は去年の春くたびれて一時ダム日記を休止をした時ぶりかな(長文失礼)。


【藤田恵・木頭村長のこと】
一番尊敬する人の一人。使命と感じることを全部きちんと実行する人だから。い
つの頃だったか、私が木頭村の応援を続けていられるのは沢山の人が私自身を応
援してくれるからだということから考えて、村長にも村長を応援する人が沢山い
るから、村長が村長たりえる。ならば私は村長ではなく、村長の回りで村長を支
える人々を応援する人になろうと思ってきた(思ってるだけ)。与えてくれる人
には与え返せないものだ。村長がくれたもの(勇気と自信、、、かな)は村長に
返せない。だからこれからもめったに村長のことを書かないけどそういう意味で
す。

【五十嵐敬喜教授】
恩人。と言っても私が先生の爪の垢を勝手にこそいで飲んでいる図。「クサイ臭
いは元から絶たなきゃだめだ!法律を変えなければダム問題はなくならない!」
と思い続けていた所に、去年の春、「立法学」ゼミのことを知って先生の所へ駆
せ参じた。(そうしたらそこに木頭村長がいてびっくりした。)去年の初夏あた
りから河川法改正のにおいが漂ってきた。五十嵐先生と木頭村長の間で化学反応
が起きて、人情派五十嵐がやる気になった。いざ取り掛かったのは突然のことで、
村長は骨子作りに加われなかったが、「河川法」議員立法のきっかけは、五十嵐
先生と村長の出会いだ。

村長と五十嵐先生の実質的出会いの元を辿ると、長良川の運動をやってきた天野
礼子さん達が準備して「公共事業チェック機構を実現する議員の会」がアメリカ
へ行った所へ遡る(「アメリカはなぜダム開発をやめたのか」築地書館1996年)。

天野さん自身は、年末年始の骨子作りには関わらなかった。骨子ができあがって、
民主党に手渡す時になって、議員との関係を持っている天野さんが五十嵐先生を
伴ってセレモニーを行なった。それまで年末年始に必至こいてゼロから始めた
「河川法改正市民会議」はポカンとしてしまった。(実質的には水問題研究家の
嶋津暉之先生と、政策スタッフが一番時間を費やした。)「ま、議員立法されれ
ばそれでいいよね」という所に落ち着いた。

本当はそれではいけなかった。各地の現場で運動をしている人が皆、この動きを
理解して、「議員立法」のこと「法律の使い方」「民主主義」のことを議論した
上で、日本の隅々からこの問題を提起しなければならなかった。それができない
ままに現場とは乖離した「ブレーン」だけで動き始めてしまった。「政党」と
「有名人」の手に渡り、ほとんどの報道者が本質を見ていなかった。議員立法の
報道の仕方も誰も知らなかった。走りながら勉強しながらまだジャーナリストに
なれない自分が悔しかった。
一番の問題は、ダム問題は、一部の人のムシロ旗的問題であり、それを民主主義
の問題にまで高める(一般化する)ことができて初めて、法律を改正する意味が
ある、ということが基本的に分かっていて「教育的」立場から報道がなされなけ
ればならないにも関わらず、政府案と民主党案のどちらがどうという単なる比較
で終わっていたことだ(と思う)。

この状態の時に(そういう状態であるという心の整理もできていない時に)、後
ろ髪を引かれながら私はアメリカへ行き、一か月間あちらから河川法のことをダ
ム日記で発信した。「なんという間抜けだろう」と思いながら。

五十嵐先生のそばにいながら本気で早めにこの事態を「予測」して、日本全体に
この動きを「広める」ことができなかったことを悔いた。言い訳はたくさんある。
「日本全体に動きを広める」なんて力は私にはなかった。立法の勉強を始めたば
かりで、まさか実践をするようになると思っていなかった(その間、半年だ)。
現場とのつながりも今よりもっと少なかった。「知的所有権」を気にしていたこ
とも失敗だった。五十嵐先生の下で勉強させてもらっていると勉強になるが、勉
強していることを、それまでの独学のように「ダム日記」などで軽々しく報告す
ると、先生の知的所有権を一部とは言え、不完全な形で流用してしまうことにな
る。思い切ってあれこれ書くのを遠慮した。この1年多くのことが報告できてい
ない。

アメリカから帰ってきたら、事態は悪化していた。法制局とのやり取りに、嶋津
先生が加われていなかった。法制局の人に、ダム開発や河川改修の前提にする
「数値」をどういじるかという問題を理解できるわけがない。一番理解している
人を蚊帳の外に置いて、「法制化」が進められていた。誰がどう法文を作るか見
えるようで見えなくなってしまっていた。骨子を作った人間に、法文化される過
程が見えなくなったらおかしい。

何がどうおかしいのか、その時には分からなかった。まだ本当にはよく分からな
い。方針ミスか、法制局という場所を開放しなければならないのか。国会提出ま
でに法案を固めてしまうという慣習がおかしいのか。(アメリカでは、議会で法
案がもまれ、かなり修正されるという。日本では、ほぼ提出された法案どおり成
立する。法制局で作業している時は、「仮想敵国」でもいるかのように極秘に近
い慎重な扱いになって「味方」なのに蚊帳の外に置かれてしまった。)

誰にアドバイスを求めたらいいのか分からない事態というのはそうはない。でも
そういう事態にいた。ロビー活動しようにも「ここまで来たらお前なんかが関わ
れる場面ではない」となった。政党内や政党間の駆け引きなんて、あるべきもの
でないものが、あるらしいのに、ちっとも見えてこなかった。「党利党略」糞く
らえと思った。

民主党の河川法が否決される日、その場に間に合うように見にいかなかったのは、
いじけていたからだ。議員立法の理想からは一番遠い所まで行ってしまい、自分
のものと勘違いした人達のものとなり、結局捨てられた。とにかく終わった、と
思った。

岩手で5日間、空と山と空気を見て過ごして、屈折していた自分が見えた。私は
私らしくいよう。活動なんか、自分を曲げてまでやるべきことではない。そう思っ
た。
それから、たった5日間の旅で自分を取り戻すなんて、いったいなんて生活を送っ
ていたんだろうと思った。
まさのあつこ