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ダム日記453(道)←  1998年 10月 10日  →ダム日記455(女)

∞∞ダム日記454(プレイバック)∞∞

10月10日(土)・・・うぅ、せっかくの祝日が....。

【初めてダム日記を読む方へ、453号までのあらすじ(^_^;)】
95年の2月から、徳島県木頭村(きとうそん)のダム反対運動を応援するために
この日記を始めたので「ダム日記」と言います。最初はダムに関する本を読んだ
り、署名を集めようとしてアレコレ苦労したり、国会へ傍聴へ行って驚いたり、
人に勧められてプレスリリースを作って記者クラブへ出かけていったり、いろい
ろな体験や学んだ事を書いた。ダムは私達が小学校で教わったほど万能ではない
ことを伝えたかった。

「一人で賢くなっても一人では何もできない。」私が勉強したことを書いて流せ
ば、誰か一人でもきっとそれを受けとめて、そこから何かが始まるかも。私には
何も力はないけれど、力も知恵もある人が読んでこの問題に気づいてくれれば、
なんとかなるかも(他力本願のための自力努力)!、そう思っていた。住民運動
とか環境保護とか一切興味なかった。ただただ、「ダムは要らない」と村民も村
議会も村長も言っている村に、建設省や徳島県がダムを作ろうとしている、それ
が「許せない」と思っただけの単純なことがエネルギー源だった。ニフティサー
ブの掲示板スピリットだけでアップロードしていたので読者の数が最初は把握で
きた。最初は27人とか45人とかだった。それで大いに満足だった。「自分以外の
誰か」という目標が達成できたのだから。

そんなある日、村の年配女性から「援護射撃をありがとう」という丁寧な手紙が
届き、ユラユラさぼりながらの日記(情報発信)だったけど、とにかく、その細
川内(ほそごうち)ダム計画がこの世から消滅するまで書き続けよう、と決心。
その一方で、人の村のことなので「いつでも止められる」という非常に無責任で
勝手な立場にあることがいつでも申し訳なかった。
でも心から真剣だった。その気持ちをどうやったら伝えられるだろう?どうやっ
たらもっとこれまでとは違った分野の人(それまでにはこの世界は金太郎飴、ほ
んの一握りの人がクルクルと動き回って活動していることに気づいた)に、ダム
問題に関わってもらえるのだろうと、「発作的」に木頭村へ自転車で押しかける
サイクリング大会/コンサートを催して、友達や知らない人を巻き込んだり(人
に勧められるままに鎌倉市長に村民へのメッセージを書いてもらって届けもした
なぁ)、「木頭村の未来を考える会」やホームパーティ(ニフティ上。現在はパ
ティオ)を開いて一緒に考える仲間との共有の場を作ってみたり(これは物凄く
良かったなぁ。建設省の手先か?みたいな人が入ってきて大変な時期もあったねぇ
・・・)。皆の知恵と意見を集めたらドンパパスさんが岐阜からウチにかけつけ
て「日本のダムのページ」http//www.na.rim.or.jp/~donpapas/index/htmlが出
来上がった。高知のノレソレさんが木頭を応援しようというページhttp//www2b.
meshnet.or.jp/Noresore/kito1.htmlを作ってくれた。皆がリンクしあってエン
パワーメントが起きた。
その辺の過程も日記に付けた。

文字で言っていたこと。「皆、自分の頭で考えて行動してね」
心の中で言っていたこと。「皆、私を盲信しないでね」

95年末あたりからだんだん木頭村のダム問題は「解決」の方向に近づいてきた。
会計検査院が文句を言い、ダム審議委員会が開かれず、亀井元大臣が工事事務所
撤退を宣言し、一時休止となった。若い取材記者の中には私に好意的で私の応援
でダムが止ったと書きたがる人がいた。そういう個所は厳重に言って必ず書き直
してもらった。
それは違うからだ。私は情報を発信しただけだ。運動を続けたのは木頭村の人だ。
間違ってもらっては日本が進むべき方向を誤る。世の中は絶対に一人では変えら
れない。皆が自分の頭で考えるようになるとき、少しだけ動く。

一方で、パソコン通信やインターネットが、世の中を牛耳っている世代の人間に
受け入れられていないことが痛いほど分かったのが95年から96年にかけてだった。
私は落ちこぼれをほっておけない。この問題に目覚めていない人、自分の頭で物
を考えることの重要性を重視していない人(風潮?強力なリーダーを求めてはそ
の人を駄目にしていく。世の中全体のことをリーダー一人に頼っては駄目なのだ。
)に目覚めてもらうには、紙媒体に進出していくしかないと思った。時代の逆行
だと思いながらジャーナリストになることに決めた。紙媒体の世界は厳しかった
が(右も左も分からなかったので)、それなりのムラ社会のようでもあり、一端
入ってしまえば仕事はある。どうやら食べていけそうだ。あとはダムのことを書
く場を開拓するのみ、、、と思っていた矢先、議員の政策秘書の話が舞い込んだ。

前の秘書が辞めたので、かわりに誰か環境のことをやってくれるヒトを探してい
るのだが、「まさのさん、誰か知りませんか?」と。議員本人から電話がかかっ
てきたのだ。「ジャーナリストになると決めていなかったら私が飛び付いたくら
いです(^_^;)。ちょっと考えてみます。誰かいたらご連絡します」と言って電話
を切った。

96年に議員立法を勉強し、97年にそれを「河川法」で実践する機会が訪れ、同時
期にアメリカでNPOを学び、ロビー活動(議会の政策や意思決定に影響を及ぼす
活動)の威力をあちこちで学び、NPO(か合資会社)を作ることをも視野にいれ、
仕事として活動をしながらロビー活動もできないか、自分の命の使い方を考えて
いた。目標を達成するために、考えあぐねてサイクリング大会をやった(3年前)
のとはエライ違いだ(^^)が、私の中では一貫してる。先日もちょっと書いた。20
年も30年もダム闘争をさせられて生きて行く人がいなくなる世界。突き詰めて言
えば、それはきっと誰にとっても住みやすい世界なのだ。
清水の舞台を飛び降りるつもりで、この議員の秘書になることを選んだ。「書く
ことは続けていい」を条件に。記念に(?)、決心した直後に議員にあてたFAX
をここに出しておく。

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佐藤謙一郎議員

前略

 先日の環境政策のための秘書の件ですが、私にやらせていただけ
ないかと思い、ご連絡させていただくことにしました。

 ジャーナリストになろうとするのも、運動をするのも、目的は、
高度成長期にできた河川関連の法律を変えていくための色々な力に
なればというところにありました。よく考えてみると、佐藤議員の
下で仕事をさせていただく以上に直接的で近道はない、と気づきま
した。
 力不足かもしれませんが、是非やらせていただけないかと思いま
した。

 もうすでにどなたか決まってしまったかもしれませんが、どうか
ご検討くださいますようお願い申し上げます。
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そんなわけで、とんでもない人生になってしまった。先日、ダム日記でも「近道」
と書いたら、知らない人からこんなメールが来た。
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 秘書かジャーナリストか、悩むのもいいけど、ダム問題を自分の出世の道具
にすることだけは、やめてほしい。
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「へぇ!そんなとらえ方をする人がいるのかぁ!」と感心してしまった。(まず、
出世という概念がよく分からない。秘書って出世か?議員会館の秘書は「ウェイ
トレス」だという人もいる。実際にそれだけでも大変な作業量。それと議員の日
程調整と電話番だけで終わる秘書もいる。終わるまいと思うと身を粉にして夜ま
で仕事することになる)「道具」と言うなら、どっちかと言うと、私自身がダム
問題の解決の道具(One of them)だと思っているので、その逆のように見えると
したら、それはその本人の心を投影しているのではないか、と思った。違うかな?


まさのあつこ